第一章 人類史上最悪の一日は最悪だった
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相撲の張り手というのはびんたとは違う。
どちらかといえば掌底に近い技だといえるだろう。
それを体重差40kgはある相手にされた日にはたまったものではない。
連結器のドア近くまで石原が吹っ飛ばされたのもそれが理由だった。
大きな落下音で車内にいた全員が彼らの方を向いた。
しかし小林はそれに気を止めた風でもなく、倒れている石原の方に気味の
悪い笑みを浮かべながら徐々に近づいていった。
「へっへー、どんな気分だよキモヲタ君」
そんなことをつぶやきながら石原の方に近づく。
「ありゃー、また小林さんの悪い癖が出たよ」
「殺さなきゃいいんだがなぁ」
そんなことをつぶやく取り巻き連中もなんら止める気配はない。止めよう
にも止められないことを彼らは知っていたからだ。
車内にはざわめきが走るが、だれも動こうとはしない。
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小休憩を取っているはずのケンは、なんかとても疲れた気分になってい
た。本来ならば多くの隕石はあたりはしないし、例え当たるとしても、その
多くはそこまで大きなサイズではない。
しかし今回の場合は、そのどちらでもない。そこそこの確率で当たるっぽ
いし、サイズだって馬鹿にならない代物である。地球上のどこに当たろうが
結果は大惨事だ。この地球上に安全な場所など存在しない…。
それは、いい。
いやそれは本当ならいい訳はないのだが、そういう事実が現実に存在する
以上それは仕方がない。事実を事実として受け入れるのが科学者だ。
一般市民は…違う。
とにかく休み時間に自分のブログなんぞ見たのが悪かった。
「助けてください!私たちはともかく幼い子供だけは!」
「おまえらにいくら予算突っ込んでると思ってるんだ、何とかしろ!」
「悔い改めなさい。そうすれば天国はあなたたちのものです」
…と、まぁブログのコメント欄がみごとにこういったコメントで埋めつく
されていた。そういやこういうのをなんとかいうんだったよな、とケンは
脳内の使われていない領域をあさってみる。あぁそうだ、フレーミングとか
いってたな。などと軽く苦笑する。
しばらくコメント欄を見ていると、しかしケネスはものすごく腹立たしい
気分になるコメントを眼にすることとなった。
「当たるなんていうのは嘘だ!これはアメリカ政府の陰謀云々…」
それがただの陰謀大好きな人ならいいとしよう。
今まで「隕石は必ず当たる!」と書き込んでいたコメンターがそういう風
に書いていたからどうしょうもなく腹が立ってしまったのだ。そんなわけで、
ケンはあることを思い、そしてそれを実行した。
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「ふざけんなこの糞ブロガー!何でアクセス禁止なんだよ!畜生!コメント
欄どころかトラックバックさえ出来ないじゃないか!」
自業自得とはいえ、バージニア州在住のミヒャエル・ランドルフに対して
ケンが下した処置は少々やりすぎであったかもしれない。しかしまぁ、これ
まで散々当たる当たるといっていながら、実際に当たるとなると急に陰謀だ
などと言い出すコメンターがいたら同じ処置をする人も多かろう。
「畜生ゆるせねぇあの豚ブロガー!これでも食らえ!」
…まぁ、そのなんですね。どこの国にもダメな人はいるものです。出来あ
いのウィルスなんぞ送ったところで対策してる人は対策してるものなのに、
ランドルフはウィルスメールをぶっ放したのだった。大体豚ブロガーといっ
ているミヒャエルの方こそ、BMI32のどう見てもぽっちゃり系だった。
…数ヵ月後ランドルフのところに警官がやってきたのはいうまでもない。
そしてそれは、強制的ダイエット生活の始まりだった…。
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しこたま背中を打った。体重60kgの人間が床に叩きつけられたらそれなり
の音もするだろう。そのまま石原に動く気配はない。
「小林さん…やばいっすよ」
「何が」
「何がって…殺しちゃったんじゃないっすか?」
「まさかぁ」
確かにピクリともしない石原。
しかし小林は、つま先で石原の腹を蹴りつけた。うめき声がもれる。
「ほらな、生きてる」
「…」
「おいおい、いつまで寝てるんだ、とっとと起きろよ」
「じゃあそうさせてもらうか」
その声がするかしないかのうちに急に小林の目の前が真っ黒になった。
ハンマーで叩いたかのような鈍い音がした。次の瞬間、小林の鼻を激しい
痛みが襲った。小林は手で鼻を押さえ、その手を見ると
「…な、何じゃこりゃぁああ!」
無理もない。鼻血とはいえそれなりの量だったから血が両手に広がって
いたのだ。
「こいつマジでこ」
と小林が言いかかった時、石原はすでに殴りかかろうとしていた。あわて
てのけぞったが、急に目の前で拳を開いて小林の顔をはじいた。目に指が入る
か入らないかでのけぞろうとしたら足をふみつけられていたようで、小林は
変な具合に足までひねった。
「あぉあうあ」
言葉にならない。立っているのがやっとだ。
自業自得ではあろうがいくらなんでもやりすぎだ、と周囲にはうつった。
ところが、石原が少し離れた位置まで急に駆け出した。小林のとりまきを
含んだ周囲の人間は石原から離れる。先ほど小林が浮かべていたのと似た
ような怪しい笑みを浮かべて石原はつり革に両手でぶらさがり、そのまま
体操選手のように前後に体をふる。
「おいまさか」
「おまえそれはいくらなんでも人とし」
そう達也が言うかいうまいかの時に石原が中を舞った。電車が減速する…
勢いのついたドロップキックが小林の顔面を強襲した。
先ほどの数倍大きな音がして小林の下敷きになる3人。顔面の痛みで悶絶
する小林とその下敷きの3人は泣きそうだった。しかし、石原は小林の頭に膝
を入れようと…
「そこまでだ」
「ちょおい何だよいきなりうあやめ」
それまで動かなかった周囲の人間が急に石原をつかんだ。さすがの石原も
大人20人に押さえ込まれれば動くことも出来ない。
「あきはばらー あきはばらー」
「へ?」
急につき物が落ちたかのように石原はおとなしくなった。
「何で俺秋葉原に戻ってしまったんだ…」
あそこで転がっている連中のせいだ、とは思ったが、冷静になるといくら
なんでもやりすぎだったと思う。正当防衛とか過剰防衛とか言うレベルの
問題ではない。一歩間違えば殺してしまうところ、というレベルだ。
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万世橋署にかかってきた電話を受けて一人の男が悲鳴を上げた。
「だから解放するなって言ってたんだよ俺は!」
つい数時間前まで取調べをしていた男が、再度同じ容疑で捕まったとなっ
たら悲鳴のひとつも上げたくなるだろう。相手が4人とか元力士とかちんぴら
まがいの連中とかどうでもいい。一般市民にまぎれて弱そうなくせに凶悪犯
であるほうがよほど性質が悪い。
電話を受けた警官に向けて若い警官は叫んだ。
「奴を連れて来い!ってっていてきに調べ上げてぐぅの音も出ないようにしてやる!」
「…それが…」
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東京、神田署。
鉄道警察から身柄を引き渡された石原、やったことあることすべて話した。
なんせ前半部は先ほどまで調書受けていたわけで、まとめて話しやすい状
況にあった(正直、そんな状況いらないけど)。後半部のきっかけもそこに
あったのだからそれもわかりやすい話ではある。しかし。
「石原さん、だったっけ?」
「はい」
「さすがに…あんたやりすぎだろ。下手すりゃ殺してたんじゃないか」
50代の警官、松島が、諭すようにいう。
「そりゃ殴られて腹まで蹴られて抵抗するなとは言わんけどさ、…どう考え
てもドロップキック以降はやりすぎだろ」
黙り込む石原。
「その上、膝入れようとしたってことは、とどめさす気だったのか?」
「…もし殺す気なら別の方法使いますよ」
「でも十分やる気だっただろ、別の意味で」
「…まぁ」
その瞬間、松島の見る目が変わった。そして、机をやや強く叩いて
「あんたぐらい強ければ十分逃げられただろうに、なぜ逃げなかった!」
「逃げても追ってくるだろ!」
「じゃあ殺すのか!」
今度は松島、かなり強く机を叩いた。しかし石原、松島をにらんで
「だったらどうしろっていうんだ!」
と怒鳴りつけた上、さらに机に頭をぶつけて
「死ねというのか!それが日本って国か!あのときもそうだったんだ!」
と急にわけのわからないことを言い出した。
両方ともヒートアップしていると急に片方が冷静になることって、たまに
あるように思える。そこまでかなりテンションが高かった松島ではあったが、
何を言っているのかわからないのと同時に、何を言っているのかについて
興味を軽くもった。
「石原さん、だったっけ?」
「なんですか!」
「あの時って、いつ?」
「…あぁ…」
石原は正直、いらんことを言ってしまったなぁと後悔してしまった。
「つらいことかもしれんが、言ったほうが楽になることもあるぞ。なぁ、
言ってみないか?さすがに殺人とかじゃないだろうし」
「…いや…ある意味殺人未遂です…」
「ある意味?」
「…ただ、これは「なかったこと」なんです」
「なかったこと?殺人未遂がなかったこと?なんだかわけのわからん話だな」
「まだ俺が、自衛隊にいたときにあの事件はおこったんです…」
11時を回った警察署の一室で、石原はかつての事件について語り始めようと
した。そんな時、近くから声が聞こえてきた。
「だっから、俺たちはこの件に関しちゃ「被害者」なんですよ!」
「言ってろ」
「実際小林さんなんかあちこち怪我してるじゃないですか」
「鼻とか折れたんじゃないか?」
小林たちの供述も進んでいたようだ。
「あいつら好き勝手言いやがって…」
「だからさ、逃げときゃよかったんじゃないかと」
「おまわりさん…やっぱあいつら殺していいですか?あいつら殺しといたら
『秋葉原でヲタクがチーマー殺害』ってニュース流れるじゃないですか」
「いや絶対そうはならんからやめとけよ」
「何でそういえるんですか?」
「お前さん元自衛官だったんだろ?だったら、『元自衛官が若者殺害』って
書かれるに決まってる」
「うわぁ、いやだなぁそれ」
「マスコミなんてそんなもんだ、都合のいい属性だけ取り出して面白おかしく
書き立てるって言うのが飯の種だし」
過去に何かあったのだろうか、警官もそんなことを言う。
「どっちにしろ、そんなつまらんことで人を殺したりするのはつまらん人間の
することだと俺は思うなぁ」
「…どっちにしても俺はつまらん人間ですがね」
「…なんだかなぁ」
大きな声だから聞こえてくるのだろうか、本来なら聞こえたりするのは非
常にまずいと思うのだが。後で注意しないといけないなと松島は思った。
「だから俺らが悪いんじゃないって何度言えば」
「ああもうお前らいい加減にしとけよ、そんなことがたがた言ってたって
3年後にはみんな死ぬんだぞ」
「おまわりさん何言ってるんですか」
「これみてみろ」
「携帯?ってなに仕事中にみてるんだあんた!」
「いいからとっとと見ろ!」
「3年後?死ぬ?」
「あいつなに言ってるんだ?頭がおかしくなったのか?」
石原と松島も自分たちの供述よりそっちが気になってしまっていた。
「さっきトイレで見てたんだ。そしたらこれだ」
警官が取り出した携帯の画面には恐ろしい事態が書かれていた。
「『2012年12月人類滅亡!!?』」
「っていったって2ちゃんでしょ?おまわりさんがそんなの信じて…」
「バカ!すでにあちこちの新聞ウェブサイトにも出てるってんだ!」
「そこまでいうなら証拠出せよ」
そんな時、パトロールから一人の若い警官が戻ってきた。彼は半ば放心
状態で帰ってきていた。手には紙のようなものを持っている。
「どうしたんだおい」
同僚に言われて、若い警官は放心した顔のまま、紙を手渡した。
「号外だな。…2012年人類滅亡?ってあと3年後じゃないか!」
署内に騒ぎが広がる。
「なんか騒がしいな」
「さっきからなんか何度も人類滅亡って言葉聞こえません?」
「聞こえるなぁ。いったい何なんだ」
石原と松島は机ごと移動して外の様子を伺う。
「号外とか言ってるぞ」
「…マジで?」
「わけわかんねーよ!今日はいったい何なんだ!!」
「…13日の金曜日、か…」
署内は騒然となった。警官も事情聴取を受けていた皆も、事情聴取どころ
ではなくなりつつあった。TVをつけるもの、ワンセグ携帯やフルブラウザで
ネットを見るもの、とにかくみんなひとまずこの事態が何なのかを理解しよう
とし始めていた。
「…おまわりさん、携帯でネットかTV見れます?」
「…俺のは古いから見れない」
「じゃあ内ポケットの携帯とりだしてください、ワンセグ携帯です」
「わかった、とりあえず調書は後で取ろう」
石原と松島も携帯で状況を確認することにした。
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すでに数時間前の東京の丸の内や新宿では、大量の号外が手渡されていた。
通常隕石がらみの記事で号外が出ることなどまずないだろう。
しかし、今回の件に関してはNASAやアメリカ政府などの公式発表があり、
トリノスケール7という前代未聞の数値が明らかになっていたのだ。
各局や各新聞社は、これらの記事を号外にしたりネット配信したりと、
かなり精力的に動き始めていた。
すべてが異例尽くめの事態に、各局は番組編成を変えつつ(CMはそのまま)
何度も隕石関連の報道を繰り返す。それが例え表面的なことであっても、
繰返すこと自体に意義がある。
このままだと人類は滅亡する…現時点では25%の確率で、ということを。
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気が付いたら12時を過ぎていた。
史上最悪の一日、それがようやくおわったのだ。
しかし…人類にとっての災厄はまだ始まったばかりである。
石原と松島は調書作成に移っていた。とはいうものの、正直なところ調書など
どうでもよくなっていた。巨大隕石が数年後に地球に衝突する。それも今までの
状況とは違い、かなりの確率であることが明らかである。
正直半ば上の空で二人は調書を作成していた。
いったい、何が起こっているのかさっぱりだった。
あ、そういやゲームに手をつけていないな、と石原は思った。
いったい、いつになったらゲームに手をつけられるのだろうか…
人間はいつかは死ぬ。とはいえ3年後と急に決められたとしたらいい気分で
いられる人など少ないだろう。
「…いったい、俺たちどうなっちまうんだろうな…」
「暴動とか起こるでしょうね。まぁ当たらなきゃいいんですけど…」
「なんかニュース中に確率が少し上がっていたな…」
それきり、二人はその話を口にせず、調書作成をすることにした。
金曜の夜だというのに、外は何故か不気味に静かになっていた。
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